第160回「細川忠興・長男を廃嫡せざるを得なかった大名茶人の苦悩」

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番組説明

千利休の高弟「利休七哲」の一人であり、九州の大大名となった細川忠興の敗北から現代に通じる教訓を探る! 室町幕府十三代将軍・足利義輝に仕える細川藤孝の長男として、1563年、京都に生まれた忠興は若くして織田家臣となり、16歳で明智光秀の娘と結婚。しかし、1582年、光秀が本能寺の変を起こすと、忠興は父・藤孝と共に剃髪し、光秀と距離を置いた。そして、信長の後継者となった秀吉の天下統一を支えていく。 1597年、秀吉の指示により、忠興の嫡男・細川忠隆と前田利家の娘・千世が結婚。ところが、秀吉が他界し、利家と家康が対立すると、家康から前田家との絶縁を迫られる。1599年に利家が病死し、翌年、関ヶ原の戦いが勃発すると、忠興は家康に従い、東軍の勝利に貢献。忠興は戦後の論功行賞で丹後から豊前に加増移封されたが、その一方で長男・忠隆を廃嫡せざるを得なかった。忠興はなぜ、忠隆の廃嫡に踏み切ったのか? 初代小倉藩主となった忠興は大坂夏の陣に参戦した5年後、三男・細川忠利に家督を譲って隠居。1632年、忠利が肥後国熊本に加増移封されると、忠興は八代城に入る。そして、廃嫡後、京で茶人として暮らしていた忠隆を呼び寄せ、30年越しの和解を果たした。1645年に忠興が83歳で亡くなると、忠隆は翌年、後を追うように旅立った。忠興の敗北から学ぶ教訓は...「感情の飼い犬にならず、感情の飼い主になれ」!

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